ネパール奮戦記

Nepal Struggle

到着2日目からさっそく病院の内装や

部屋の割り振り、機材の配置などを皆で考えました。建物は思いのほか立派にできているのですが、電気・水道・家具類などは一切なく、ソーラーパネルはオーダー済みですがいつ届くのかは情報もなく、水道は数キロ上部の氷河からの雪解け水、これをパイプで引いてくる計画、それから薬の仕分けや機材のセッティングなど、とにかく開院させるまでにやらなけれぱならないことは山ほどありました。現在7月18日、8月開院の目途になっています。自分の部屋の雨漏りもまだ完全にはなおっていないけどそれは後回しにして、今ある材料だけでどこまでできるか、足らないものも最小限で注文しポーターに運んできてもらう手筈を整えていく、電話はなく交通手段も歩きしかなく、下界の町に注文が届くだけで数日はかかるため、準備して物が上がって来るのも早くて10日ほどは要する状況でした。しかも1回で人間が運べる量は限られており、どういう順序でこなしていけばいいのか、思案に苦しみました。 そうこうしている間にも、こんな奥地に医者が来たという話は村から村へ口コミでに広がっているようで、患者が訪ねてくるようになりました。 まだ何も整っていない状態で、とりあえず薬の場所もわからず、探しながら投薬をします。やはりまたそこで問題です。診察するにも、何を言っているか問診ではほとんどわかりません。お互いジェスチャーで示しながら、入念に診察します。道具は聴診器だけ、あとは自分の指先での触診だけです。一人の診察に時間もかかるけれどやはりそこは経験的なもので、おおよそどこが悪いのかは見当が付いてきます。投薬の説明も時間がかかりますが、薬は煎じ薬などを使われていたようで全くわからない訳ではなさそうでした。 後日良くなったと言いに来てくれた人もいて、久しぶりに診察でき、良くなってくれたという二重のよろこびを感じました。 ここまで来られたことに感謝して、何か形にして残して帰りたい。それには何としても開院させてできるだけ多くの人に役立てるようにしていきたい気持ちが高まってきました。自分には何の報酬もないのですが、この経験こそが報酬と思え、目の前の患者を救うという医者の原点を再確認できました。

開院までの日がないからといっても、

それは日本とは違い焦ってもことは進まず、我慢して待つ事は多々あります。連日歩き回り疲れた日には週一回程度洗濯したり、洗髪したり、大地の上で何時間も寝転んでいることもありました。 少し現地の解説をしますと、ネパールの有名な避暑地ポカラからアンナプルナの山間部を飛びジョムソンヘ行き、その先のムスタン地方という数年前まで鎖国状態でネパールから独立してまだ間もない王国のあった特殊な地域です。最奥のチベットとの国境近くにはローマンタンという歴史的にも価値のある国王の住む城壁のある町があります。ジョムソンからはトレッキイングコースにもなっているのですが片道1週間程度かかり、パーミットも高額で取得しにくいようで、あまり観光目的のトレッキングで入って来る人は少ないようです。しかしそのような経緯もあって発展は遅れ医療もほとんど入れていない地区でした。ネパールの山間部にはヘルスポストという診療所に似たようなものがあり、なにか資格を取ったものが簡単な投薬などを行っています。ただこの奥地ではそれも空き家になり十分な機能を果たせているものがほとんどありませんでした。したがって現地の人は病気やケガをしても祈祷師に煎じ薬をもらう程度で、何も治療を受けることなく亡くなっていく人が多いのが現状でした。 今回病院を建てたガミという村は標高は約3700m(およそ富士山の頂上ぐらいです)あり、非常に乾燥し午後からは強い風が吹き、ほとんど植物は育ちません。そんな中でも蕎麦や麦、ジャガイモは育つようで現地の人は毎日同じ食事を食べ、栄養状態もかなり悪いのが現状でした。それを見てJAIC出身の農業の専門家がいち早く入り、いろいろな野菜を育てる工夫をし、指導していました。その方々が、現地で病気になっでも治療を受けることなく亡くなっていく人々を目の当たりにし、この地に医療の導入を考え医師を捜されていました。 このような経緯で自分は今この地に来ているといった状況です。もっと人のために役に立ちたいという気持ちだけで、自分の生活や地位はすべて犠牲にし、良かったのかは迷うことも多々ありました。こちらに来てからもいくつもの壁にぶち当たり挫折もしかけました。でも少しずつ前進し先が見えかけてきた今では後戻りすることは考えず、やりがいの方が大きくなり、ぶつかってもぶつかっても突き進んでいく闘志ができてきているのがわかりました。

現地での生活は耐え難いことも多くあったのですが、

しだいに慣れていく自分に驚いていました。食事は朝夕二食のみで毎日同じものを食べていましたが、おかわりするようになりました。家畜と同じ建物で悪臭の中、何年も干していないカチカチになった重い絹布団でも熟睡でき、少々の雨漏りでも目が覚めることもなくなりました。洗濯や洗髪は手や頭が痛くなるほど冷たい水だったのにも慣れました。そして毎朝広大なヒマラヤを見ながらの歯磨きは最高でした。こうしてしだいに現地での生活や村の人たちにも溶け込むことができました。 開院に向けて機材や家具を運び込み、しだいに病院らしくなってきました。院内には自分の部屋も作ってくれ、ヘリコプターでのソーラパネルも到着し皆で何日もかけて組み立て病院に村一番の電灯が灯りました。自分の部屋にも電気がついたときは何ヶ月かぶりの電気の温かみが身にしみるようだったのを覚えています。オートクレープも試してみましたが、電気容量が大きく他の電気を消さないと使えないことが判明しました。 そしていよいよ開院のオープニングセレモニーが8月10日に決まり、口コミでの広がりだけで近隣の村々からはこんなに人がいたのかと思うほど集まり自主的に飾り付けをしてくれたり、食事の用意をしてくれたりと楽しく手伝ってくれました。全く知らない人がこんなにも手助けをしてくれることで人の暖かみや村々での一体感が伝わってくる思いでした。 開院式の前日、隣の村から急患の知らせが入り半日かけて隣村まで往診に行きました。幸い大事には至らず処置できました。このように初めてこの地に医療が入ることへの不安も、少しづつ垣根が取れるように受け入れられていることを感じ、ようやく本来の仕事ができるという期待感が大きく膨らんでいきました。